償い
- 2015年08月15日
安倍晋三が「戦後70年談話」を発表しました。
字数だけは多いけれど、相変わらず薄っぺらい中身としか言いようのない内容だったとの感想を持ちます。
安倍晋三が、未来志向と言ったのは、過去に縛られ謝罪を繰り返すより、子孫にはこの謝罪を続ける宿命を背負わせてはいけない、すなわち今後は政府として「謝罪をしない」と明言し、そのことが未来志向であると世界に発信しました。
先に韓国を訪問し、ソウル市内にある「西大門刑務所歴史館(日本が韓国を植民地統治していた時に、独立活動家を収監し拷問などを行った場所)」を訪ね、献花した後に韓国式最敬礼である「クンジョル」をして謝罪の意を表しました。
このことについて、様々な思いの方がいらっしゃると思います。
しかし、その真意は「謝罪とは相手が納得するまで行うべもの」という事が根底が流れています。
ひどい目にを合わされた被害者(国)は、終生そのことを忘れませんが、加害者(国)はすぐに忘れてしまう。
さだまさし氏の作品に「償い」という歌があります。
この曲は実話を元に作られたもので、『さだ氏の知人女性が交通事故で夫を亡くした。加害者の男性は、誠実で、まじめな性格だったのか、罪を償いながら毎月わずかでずつはあるが賠償金を送付してきていた。しかし、彼女は加害者からの手紙が届く度に事故のことや亡き夫を思い出してはつらい思いをしていた。送金は事故から数年経っても続いており、被害者の女性は、茶道の師範をしており経済的にも自立している事を述べ「もうお金は送ってくれな来ても結構です。あなたは事故のことを早く忘れて、あなたの人生を元に戻して欲しい。」と加害者に対して返事の手紙を送ったが、その手紙を受け取ったにもかかわらず償い続けるために翌月以降も送金を続けた。』という内容です。
貴方は、どのように感じますでしょうか。
一方、『許すということはむずかしいが、もし許すとなったら限度は無い。ここから先は許せないということがあれば、それははじめから許していないのだ。』と山本周五郎は「ちくしょう谷」に書いているようです。
日本が加害者であったことは事実であり、今後の二国間関係においても謝罪という誠意を尽くし続けることに変わりは無いはずです。