憲法は不磨の大典であるべき
- 2014年05月03日
今日は67回目の憲法記念日です。
アベチャンになってから憲法の存在が揺らぎ、憲法解釈の見直しで「集団的自衛権の行使」を閣議決定しようとしています。
報道でも心ある方は、「時の政権の解釈で憲法がいかようにでも解釈可能となれば憲法自体の存在意義が無くなってしまう。」と言われています。
まったくその通りではないでしょうか。
よく、「今の憲法は占領軍(GHQ)に押しつけられたものだから自主憲法を制定すべきだ。」とか、「制定後67年間1回も改正されていない。時代は変わった。憲法は不磨の大典ではない。」ということを言って、現憲法を見直すべきだと主張される方がいますが、先の道新に、米国出身で元津田塾教授のC.ダグラス.スミス氏が『これまでの大日本帝国憲法は、政府に権力が集中していたことから、新しい憲法は政府の権力を減らす憲法になった。もちろん当時の政治家や政府関係者はなるべく自分たちの権力が減らないように抵抗したが、占領軍と国民は力を合わせ、新しい憲法を政府に押しつけた。なので、政治家や権力者の立場から、それが「押しつけ憲法」だと感じたのは当然だろう。』という主旨の文章を提供しました。
立憲主義から、憲法は権力を縛るものですが、これまで大日本帝国憲法の下、国民を縛ってきた方々にとって新憲法は忌まわしいものとして、早く自分たちの思い通りに国を動かすことの出来る憲法が欲しかった、だからこそ、自民党は結党以来「新憲法の制定」に血道をあげてきたものと思います。
もう一つ、「この間1度も改正されておらず、憲法といえども不磨の大典ではない。」ということですが、私は、現憲法に不備があるとは思っておりません。
時代に合った条文を加える「加憲」や「創憲」などを主張される方々もおり、環境権やプラバシー権などを例に挙げますが、それは、現憲法の第25条にある生存権における公衆衛生の向上で対処でき、、既に環境省が設置され、「大気汚染防止法」や「水質汚濁防止法」、「土壌汚染防止法」の他にも環境に関する個別法で対処してきていますし、必要ならば新しい法律を制定することができます。
プライバシー権は、現憲法第13条の「全ての国民は個人として尊重される」という中で法律を制定することが出来るのではないでしょうか。いくらでも現憲法の枠内で対処可能と思います。
私は、「国民主権」、「平和主義」、「基本的人権の尊重」を高らかにうたった現憲法はこれからも「不磨の大典」であるべきだと思います。