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教育勅語が教材?

  • 2017年04月07日

 政府は「教育勅語を教材として使用することを否定しない」ということを閣議決定しました。

 ナゼ今頃、教育勅語の教材化なのでしょうか。

 森友学園の園児が教育勅語を諳んじている映像は、少なからずショックでした。

 今の時代に教育勅語を幼児教育に取り上げている、そして、安倍晋三は「妻から聞いている。大変素晴らしい。私の考えに共鳴していただいている」と話し、教育勅語を用いていることを否定をしませんでした。

 そのことをきっかけに、稲田防衛相は水を得たかのように「教育勅語の核の部分は取り戻すべき」と主張、ついには菅茶坊主官房長官までが「憲法や教育基本法に反しない適切な配慮の下で取り扱うことまでも、あえて否定しない」と記者会見で強調してしまい、小・中学校の道徳の時間に取り上げることを容認、と言うよりも今の「忖度」では、教育の場で積極的に取り入れる校長が増えるものと危惧します。

 教育勅語は本当に憲法に反していないのでしょうか。

 まず、明治憲法下での天皇は国の統治者・主権者であり、国民は臣民(天皇が支配する者)という位置づけであり、その天皇が発したのが教育勅語です。

 現憲法下では天皇は統治者ではなく象徴であり、主権者は国民で、ここに大きな違いがあります。

 この「教育勅語」は、軍国主義の礎になったとし、また基本的人権を損ない、国際信義にも疑問を残すという理由で1948年に衆参両院で教育勅語の排除・失効が決議され、その前年には新しい教育基本法が制定されました

 現憲法下では教育勅語を教育に使用することは憲法違反に抵触すると思います。

 次に、我が国は「皇祖皇宗」いわゆる天照大神に始まる天皇歴代の祖先が国を作ったのではないこと、すなわち古事記や日本書紀に示される神話ではなく、人類の進化の歴史という事実に基づいて現在があり、道徳でこのことを教えることは、社会科の歴史や理科の生物における人類の進化と矛盾が生じ、教育の場に混乱をもたらすだけです。

 さらに「万が一危急の事態が生じたら、大義に基づいて一身を捧げて皇室国家のために尽くし、永遠に続く皇室の運命を助けなさい。」などは、現憲法とは相容れません。

 安倍晋三や稲田朋美が核の部分と言っている「父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じ合い、行動は慎み深く、他人には博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、知能を開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の努めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい」というくだりは、今の教育基本法(必ずしも納得してはいませんが)の第二条に記されています。

 

○第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標 を達成するよう行われるものとする。

一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培う とともに、健やかな身体を養うこと。

二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養 うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基 づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国 を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 

 これが、戦後の民主主義と国民主権の中で求められる教育目標であり、まさしく核の部分です。

 父母に孝行、兄弟仲良く、友達とは信じ合い、というのは教育勅語でなければ教えられないものでしょうか。

 安倍晋三とそのお友達は、変なところで信じ合っているのではないかと思います。

 かつて田中角栄元総理は「戦争を知っている人間が社会の中核である限り、日本は安全だが、戦争を知らない人間が中核になった時が問題だ。」と話していたそうです。

 政権の中枢にいる人間が、いつの間にか教育勅語を復活させる下地を作っていることを看過することはできません。


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